なぜ人を殺してはいけないか

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「なぜ人を殺してはいけないか」という本を読んだ。
対談形式の本で、会話が噛み合っていなかったので、本としてはあまりおもしろくなかった。
この種の対談があると、必ず一人は「殺せ」とかいう人がいるから困る。
そう言うからにはあんたが殺されてくれ、と言ってあげたい。

しかし、テーマとしては、かなり深いものである。
これは一度しっかり考えておくべきことではないだろうか。
例えば子供に「なんで人を殺してはいけないの?」と聞かれたときに、
あなたはちゃんとした答えを返せるだろうか?

では答えを考えてみよう。
まず一番単純なのは「人を殺したら法律で罰されるから」というものだ。
人を殺したら殺人罪で罰されるから、人を殺しちゃいけないんだ。
じゃあ、罰がなければ人を殺していいの?
そうじゃないけど・・・
じゃあ、罰を覚悟してるなら殺してもいいの?
・・・
これではダメだ。

次。
「お前は殺されたくないんだろう?じゃあ他人を殺しちゃダメだよ。」
「殺されたくはないけど、殺してみたいんだよ。」
「でもお前、されたくないことはしちゃいけないんだよ。」
「されたくないことって人によって違うじゃない。じゃあ死にたがってる人なら殺してもいいんだね。」
「ん〜、そういうわけでもないなぁ・・・」

ここでちょっとこの「相互性」について考えておかなくてはならない。
道徳によく出てくる理由として出てくるこの「相互性」
「あなた、こんなことされたらいやでしょ?それじゃ人にそんなことしちゃダメじゃない」
要するに、人にされたらイヤなことは人にするな、というものだ。
まさに上の話の展開はこれに当たる。
ではこの「相互性」根拠は何なのだろうか。
私の考えでは次のようになる。

みんながなんとなく「そういうものだ」と無意識に受け入れている事がある。
人の物を盗んではいけない。
理由もなく人を殴ってはいけない。
強姦してはいけない。
殺してはいけない。
つまり、人に迷惑をかけてはいけない

何故「そういうもの」になっているのだろうか?
それは、みんながこれを守ればみんなが快適に暮らせる、という決まりごとなのだ。
これらはだいたい「常識」とされる。
逆に、電車の中でケータイの着信音最大で鳴らしまくり、電話に出てからも車内中に聞こえるような声で
「モシモシィ〜、あぁ、ユカァ↑?」とかやるのは「常識がない」とみなされる。
人の迷惑を考えていないから。

だから、「常識」は国によって違う。
ひょっとすると、地方によっても違う。
例えばタイでは、子供の頭に触るのはよくないことだが、日本ではむしろかわいがっていることになる。
これは、絶対的な理由があるものではないからなのだ。

つまり、「相互性」に絶対的な「根拠」はないのだ。
これを皆が守っていると都合がいい、という約束事に過ぎない。
ここに来て、「相互性」を根拠にする理由を失う。

対話に戻ろう。

じゃぁ、なんで人を殺さないの?
う〜ん、考えたこともないなぁ。特に殺さなくても困らないから・・かな?

そうなのだ。
普通は殺したいという欲望を押さえているから殺さない、というわけではないだろう。
殺すことに興味がないから、殺さないでいるに過ぎない。
やっぱり理由はないのだ。

そんなわけで、絶対的な理由が私には思い付かない。
「刑を受けることや、その後のお前の人生を考えると、人を殺すことがお前のプラスになるとは思えない。私はお前に不幸せになってほしくない。だから人を殺してほしくない!」
というのが一番素直で力強いのかもしれない。
ただし相手との信頼関係が問われそうだ。

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