理解するということ

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特におもしろかったり画期的だったりすることは書かないので、そのつもりで。

本を読み終わったり、勉強し終わったりした後、 その瞬間は「おお、かなりよくわかったよ」的な気分になっているのだが、 しばらく経つと実は何も頭に残っていませんと。 こういうこと、よくありますね。

でももしちゃんと理解できていれば、 細かいことは忘れても頭の中で再構築することができるだろう。 その結果、全てが抜け落ちてしまうことはない、あるいは抜け落ちにくくなると。 要は、頭に何も残らなかったということは、 結局よく理解できていなかったのですね、ということだ。 (「理解」というプロセスのない丸暗記はあてはまらない)

それでは、ちゃんと理解して頭に残すのが重要だとすると、 どうすれば頭に残すことができるだろうか。

結局、最もシンプルかつ最も効果的なのは、その内容をアウトプットしてみることである。 人に説明するもよし、紙に書いてみるもよし。 サイトに書いて発表してみるもよし(このように)。

やってみるとわかるが、理解できていない場合、 かなり頻繁につまづいてしまう。 自分のものとして理解できていないと、自分の中からは出てこないのだ。 ここに至り、いかに適当に流してわかった気になっていたかが、深く「理解」できてしまったりするわけだ。

この場合、アウトプットできるようになるためには、 内容を見直したり、考え直したりすることが必要になる。 このプロセスを経ることで、更に理解が深まっていくということも見逃せない点である。 人に教えるということは、実は自分のためにもなることなのだ。

通常生徒は教わる側だけになるが、逆に教える側をしてみることが、 理解を深める強力な方法になるのだ。 教わる側の数が多い場合は現実的ではないが、 少人数制が有利なのはこの点である。

さて、アウトプットの方法には、書くことと話すことがある。 日本の教育の特徴として、書くことはある程度多くても、 人前で話す機会が異常に少ないことがある。 そのためか、大勢の前で話をすることに苦手意識を持つ人は多い。 しかし、社会で生活していくためには、自分の考えていることを 他人に伝えることは誰しも必要である。 それができなければ、正しく意図が伝わらずに問題が発生したりする。 そしてこれは、実はある程度まではただの技術なのである。 (強烈なカリスマ性で人を動かすことは、才能に属する)

欧米式の教育を賛美するつもりはないが、この点は日本の教育も 見習う必要があるのではないか。

まとめ

  • 理解するには、書くか話すかして、アウトプットするとよい
    これは理解しているかの指標にもなるし、理解も深まる。
  • アウトプットは練習によって磨かれる
    特に人前で話すことは不足しがちなので、練習するといい

読みにくい。気が向いたら書き直そう。